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  • charistma

モラトリアム

この数週間、自分の感情をコントロールできなくなることが多い。

寄せては返す波のように、何かを行ったり来たりする。

何に引き回されいるのか、いまいちはっきりしない。


大聖堂に鳴り響く讃美歌のように、

「そうなのだ」と何のエビデンスもなく、

言葉にする必要性を排除する荘厳と慈愛があればいいのにと思うばかりだ。

自分の中から言葉が出るというよりも、言葉の中に自らがあるような

そういう抱擁が欲しいと思うのはわがままなのだろう。


そうであるならば自分は何をためらい、ためらうのはなぜか。

ある人は、人生は選択の結果であるという。

であれば自分は選択に迷っているのか。

確かに一理ある。

広義でいえばそうかもしれない。

それは時間の選択であり、義務と権利の選択であり、

抗いと受容の選択であり、今までとこれからの選択でもあるからだ。

しかしながら、外れてはいないにせよ、どれも核心と呼ぶにはしっくりこない。

全てが,利害を含む現象面の選択の羅列に自分が感じるからだ。


今日は久々の休みだった。

昼に起き、誰もいないリビングで昼食をとり手持ち無沙汰になった。

なんとなく、忙しくて最近ご無沙汰だったウォーキングに行こうと決め、

ゆっくりといつものウォーキングコースを愛犬と歩いた。

愛犬は今年でもう13歳だ。

さすがに足取りが重くなり、息切れも早い。

コース中盤の最もきつい坂を上り始めたとき、

はじめて愛犬を抱いて登った。

そうしようと思っていたわけではないが、なぜか無意識にそうした。

頂上近くでおろすと、意外にも嬉しそうに飛び跳ねた。

なんだか気持ちが通じた気がした。

頂上でいつものようにおやつを与え、愛犬を撫でると、

尻尾の近くに白髪が多くあることに気づいた。

なんだかわけもなく涙が出た。


その時、

そうかモラトリアムなんだとわかった。

生ある存在自体が、死へのモラトリアム。

始まりのあるものには終わりがあり、それを意識したときはじめて意味を求める。

求める意味は、総じて「良かった」だ。

少しだけ、自分の今が立体化できたような気がした。


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