ここでは、なんとなく自分自身が感じたことを
自分自身の予定調和的な理解、
誰かに読んでもらいたいという承認欲求、
を前提とせず思いついたまま綴ろうと思う。
仕事・趣味・生活、
総じて人生に、更新頻度が少ない今日この頃。
自分の身の回りに起きるすべての事の答えが、
自分の中で「コモディティ化」している。
震撼するほどの驚きや悔しさ。
登りかけの梯子を外される脱力感に対する慣れ。
蔓延する不安という名の拳の的であるという自覚。
その自覚は、
「背負う世界は向き合う世界と表裏一体」ということを強く認識させ、
自分の中の良心と憎悪を、偽善・大儀・在り様という名でオバーコートする
選択肢の多さはストレスの比例定数。
しかしながら、薄氷の上を歩き続ける選択肢の無さは、
開放感とは真逆に、三遍回ってワンを繰り返せという劣等感と閉塞感にすり替わる。
ニーチェ曰く、
「ニヒリズム」とは
「何のために?」という問いに対し、答えられないこと。
すなわち、「意味の喪失」。
何度も拠り所にした、
「それでも」は
「それでも歩ける」というオートマチックな自分という意味だったのかもと思うと
犯した罪をまとめて裁かれるような気持になる。
誰かのもつ裁きの物差しはいつの時代も、それぞれの正義。
何とつながっているのかわからなくなる、その「間」の中で、
自分は、何かを「しようとしているのか」、
それとも反射的に「しそうになるのか」問うてもむなしい。
地球上にある物質は宇宙上ではわずか4%にしかならない。
96%は知らない事。
人生もそうなのだと誰かは言う。
96%は「今」にとって必要のないものだという事実は、
広義でいえばスタージョンの法則にあてはまるともいえるだろう。
もともとないものなら「喪失」にはならない。
もしそれが、確かにあったものなら、
ジョンのいうように「務めは終わった」、
そういえるだけで救われる。
ニヒリズムは円の始まりと終わり。
そのゆがみも、悲しいかな、次の円と隣接することで粛清される。